ほなろぐ

徒然なるままに、現役女子大生(22)が思うこと感じることを書いています。

いまになって気がついたこと。いまだからこそ気付けたこと。

 こんばんは!ほなみです。日本へ帰国したら髪をバッサリ切り落とそうかなとなんとなーーーく思っていて(ショート女性に憧れを抱いている)、でもいい感じに髪も伸びてきて切るのがもったいないなーなんて思ったりもして(帰国したらたくさんお洒落をしたいと考えている→ヘアアレンジしたい!!!)結局、その場の気分なんだろうなと思っていたところです(笑)

オーストラリアでは無に限りなく近づいたお洒落への意識。。。もちろん、身だしなみは気にしていますよ!ただ、それ以上はいいかなっていう感じなんです。取り戻しますよ〜〜〜笑

  さて、帰国もまあまあ近づいてきた今日この頃。なにげなく、次の目標について

考えていたわけですが。。。昨日、大学の少ない友達である(彼女は来春卒業予定)と

ひっっっっっっっっっさしぶりに連絡をとりました。

彼女は私がいまちょっと気になっている会社で内定もらってて、いまもアルバイトのようなインターンのような形で働いているみたいで話を聴こうかなと思って連絡をしてみたんです。

 私、こう見えて(?)真面目な話をするのがだいすきで、大学の友達とはそういった類の話をしたことがなかったのですっごく楽しくて、帰国後もそういった話を

彼女とできたらなって思っています。考えていること、実現したいことが似ていた!

 

自分でいうのも何ですが、好奇心は旺盛で直感で動けます。あーこうだったらもっといいのになって思うことも割と多いと思います。

ただ、それ以降がない。致命的なことに、、足りないことは目に見えていて

パッションを形にする実現力。何かがしたいと思っても口だけでいうのは簡単。

それを形にできてこそ、社会に貢献したといえるし、本物だといえるわけです。

一言でいうと想いをカタチにする力・・・ですかね。いままであーだこーだ言ってきたけど、結局ここに立ち返るわけです。残念ながらいまの自分はしょぼい。かなり、しょぼい。。。しょぼすぎる。

 

 しょぼい私が今日気づいたことがありまして。

大学生活でやってきたことをふんふんふんと洗い出してみたんです。す、すると、

そこにはある共通点が。

「子ども」に関係するということです。大学一年生のときに何かしたいと思って参加した長野県栄村でのボランティアも、興味あるな〜ってだけ思って飛び込みで参加した高校生と本音で語り合うカタリバも、海外に行きたいなーと思っていて友達とノリで参加したら倍返しでたくさんの学びをもらったCFFも、そしていま、オーストラリアでの最後の挑戦である小学校英語指導法を学んで、その後の現地での幼稚園実習も、あと他にも特養での活動もあるけどそれは置いといたにしても、自分がフラーっと興味あるかもってやってみたことの共通項が

               子ども

でした。

 そして、ゼミの恩師の先生が言っていた「子ども」と表記することの意味。

それを聞いてから「子供」ではなく、「子ども」といつも気にして書いていることにもいま気がついた。。。笑

 

 子どもは好きだけど保育士さんになりたいかと言われればNoだし、学校の先生になりたいかと言われればNo。いわゆる学校での勉強はできないし、保育士さんって本当に大変だからやり抜けるかと言われたらきっとできないから。こういった教育者の人たちには多大なるリスペクトがあってのNoです。笑

 

 でも、きっとどこかで子どものことを気にしているんだろうと思う。うまく書けるかわからないけれどいま思ったことを書いてみる。

 

 子どもの時に過ごす時間って人生がもし80年あるとすれば、その中の4分の1。(子ども時代を20歳までと仮定するとしたら)この4分の1という数値が多いか少ないかはここではどうでもいいと思っていて、私はこの4分の1があとに続く4分の3にとてつもない影響力があると思っている。

子どもの時に愛を正しく与えてもらえなかった人は大人になってから、愛を懇願する。

なんで愛してくれないのと、きっと他人を間違った方法で愛してしまうこともある。

 

子どもの時にいじめを受けた人はそのトラウマをもしかしたら引きずって生きることになるかもしれない。それがたった一度だとしても、心には大きく傷がついたまま。

 

子どもの時に教育を受けれなかった人は大人になってからが一番苦労する。どうやって生きていけばいいかもわからないまま、コミニュケーションもとれず、孤独になり、

周りには助けてくれる人もいない。最悪の場合には自ら命を落とす人もいる。

 

子どもの時に暴力をうけて育った人は自分が親になった時に自分の子どもに暴力をふるってしまうかもしれない。誤解しないでもらいたいが、もちろん全員がそうではない。

ただ、無意識のうちにそうしてしまっている場合も多い。

 

子どもの時に大人を頼るのが下手だった子は大人になってからも変わらず、周囲を信じることができない。なんでも自分でやりきろうとし疲弊する。自分が壊れてしまう。

 

子どもの時に挫折を味わったことのない人は大人になってはじめて失敗してみると、

それを他人のせいにする。プライドがズタズタになり、それに耐えきれない。

 

子どもの時に成功体験がない人は自分に極端に自信がなく、何をするにも他人の許可がないと動けない。自分で自分の人生を生きることができない。

 

あくまでも上記は私の考えで全ての人ではないということをわかってほしい。

ここでお伝えしたいのは子ども時代をどう生きたかでその後の人生がガラっとよくも

悪くも変わるんだってこと。

 

こんな話がある。子どもの時はすごく貧乏で貧乏で、学校に行けるお金すらなかったけれどそれをバネに頑張ってそれでもかってくらい努力して這い上がった人。

 

時に困難な状況が人を強くすることもあります。それは口でいうよりもずっと大変で

過酷で険しいです。私はラッキーだったことにそういう「努力」はしなくても

学校にはいけましたし、経済的にも恵まれていたと思いますし、絵に描いたような

仲良しファミリーではなかったけれど、割と自由にさせてもらいました。

 

ただ思うのは上記に書いたような「過酷な子ども時代の経験」で人は成長もしますが、

それと同時に「自分がダメ」になってしまうこともあるということです。再起不能になってからでは遅いですし、再起可能だとしてもそれに費やす時間は長いことが多いです。

 

 自分はラッキーだった。で終わらせたくないのかもしれません。ラッキーならラッキーなりにそういうものに関わらず生きていくこともできる。

不平等な社会なのはやっぱりいつの時代も仕方ないことだけれど、やっぱり一人でも多くの可能性ある子どもたちに希望を持って生きていってほしいなと思う訳です。

 何かに挑戦できるということも考え方を変えればとてもハッピーなことで、挑戦できるという土俵にすらたてない子どももいます。

 

とかっていうことをぐるぐる考えてました!笑

こういうこと考えていると自分は偽善者なのではないか?と思うことも多く、

言われたこともありますし、こうやって自分の考えを公開することに対して少し

ためらいもありましたが、書きたかったので書きました!

 

まだまだ思っていることもあるんですけどこの辺で。うまく伝わったかわからないけれど読んでくれてありがとうございます。

 

じゃあこういう問題がある中でどう動いていけばいいのかってことがきっと次のステップ。足踏みしている場合ではない。けれど、いまをすっ飛ばして生きるのもおかしいからまずはまた明日幼稚園での活動頑張ります。パッションがあってもそれを形にできなければ地に足ついてないのと一緒だよなあ。と強く感じている。。。

 

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実習先の子どものジェネビーが私に書いたくれた絵。真ん中にいるのが私です?w

子どもたちが可愛すぎて可愛すぎます。

 

                                                                                        ▶︎To be continued...